【基礎から楽しく学ぶ】
ソトのガクエンの
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【講座詳細】
9月は現代哲学編として、近代的人間像を批判し、言語学、文化人類学、精神分析といった人文諸科学の知見を参照することで、あらたな人間の条件を探求した現代哲学について学びます。
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現代哲学に共通する問題意識は、近代社会や近代主義的な人間像を批判することにあります。現代哲学の起点となった、ニーチェ、フロイト、マルクスといった哲学者たちは、合理性や理性、発展的な歴史観といった、これまで人間の本質だとされてきたものを根本的に批判します。では、彼らが批判する「人間」とは何であり、この「人間」を前提に成り立っている近代社会の何か問題だったのでしょうか。これを理解することが現代哲学の根幹を理解するうえでもっとも重要になります。
しかし、時代をさかのぼれば、近代の真っ只中にいた哲学者カントもまた、例えば、オカルト的な霊視体験に関心を向けるなど、理性の枠に収まりきらない非理性的なものの存在を敏感に感じ取っていました。理性にはそもそも非理性的なものが含まれているというカントの視点は、現代哲学に直結する議論を含んでいます。
そこで今回は、近代的人間像や近代という社会が含む問題点を、理性と非理性という観点から考えることで、現代哲学の出発点について考えてみます。
近代的人間像を批判し、超克するのが現代哲学であるとすると、では、人間を人間たらしめる条件をあらたに見いだすことが課題となります。すなわち、19世紀後半以降の哲学や人文科学は、あらためて「人間とは何なのか」という問いに取り組みました。このとき、現代思想の多くが理論的に参照したのは、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの言語学でした。ソシュールが提示したあらたな言語観や言語理論は、とりわけ、1960年代フランスの人文諸科学で興隆することになる構造主義へと連なります。今回は、ソシュールの『一般言語学講義』からソシュール言語学のエッセンスを取り出すとともに、その言語理論が現代哲学に与えた影響を考えましょう。
1960年代フランスを中心に、文化人類学、文芸批評、精神分析、哲学といった人文諸科学において、構造主義という運動が生じました。意識や主体性を前提する近代主義に対して、構造主義は、そのような人間の意識や主体性といったものが、個々人を超えた力関係や権力関係によって規定され、生み出された結果に過ぎないと考えます。構造主義の発想は、マルクスが提示する下部構造による上部構造(イデオロギー)の規定という議論にも通じるものがあります。今回は、レヴィ=ストロースの人類学、ミシェル・フーコーの権力論を参照しながら、構造主義の基本的な考え方をマスターし、近代主義が隠し持つ欺瞞性や危うさについて考えてみましょう。
現代の社会を一言で表現すると、それは「暴力の時代」であると言えます。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ以降多発する、市民を巻き込むテロ事件、移民排斥運動、あるいはジェンダー差別といった現代の問題は、人間の暴力性の発露として捉えることができます。同時に、現代社会における社会構造や社会制度、あるいは報道やメディアには、暴力を覆い隠し、見えないようにする機能が構造的に備わっていると考えられます。今回は、現代における喫緊の課題である気候変動問題をケーススタディとして取り上げ、現代哲学の概念や発想を参照しながら、現代における暴力の在り方について考察してみましょう。
【講師】小林卓也(ソトのガクエン代表)
1981年京都生まれ。大阪大学人間科学研究科出身(人間科学博士)。専門は現代フランス思想。現在、京都産業大学、関西学院大学の非常勤講師として学生に哲学を教えるかたわら、哲学的思考や哲学的な生き方が現代においてもつ重要性を、一般の方々にも分かり易く伝える活動を行っている。哲学的思考コンダクター。
著書に『ドゥルーズの自然哲学|断絶と変遷』(法政大学出版局)、共訳書にジル・ドゥルーズ『ベルクソニズム』(法政大学出版局)他論文多数。
【オンライン開催】
◎Google Meetをもちいたオンラインでの開催となります。パソコンもしくはスマートフォン、タブレット等からご参加ください。スマートフォンとタブレットの場合、あらかじめアプリをインストールしておいてください。ダウンロードは下記のアドレスから可能です。https://apps.google.com/intl/ja/meet/
◎チケットを購入された方には事務局から、講座会場のURL等についてご連絡いたします。
※開催当日前日までに連絡がない場合は、お手数ですがinfo@dehors-org.comまでお問い合わせ下さい。
◎毎回の講座の模様は、講座終了後、限定YouTubeにて一定期間ご覧いただけます。
【参加費】
各回のみ参加(午前か午後をお選びください):4.000円
全4回通して参加(午前か午後をお選びください):14,000円
【参加資格】
◎資格や能力は必要ありません。
◎哲学や哲学的な考え方を学びたい方であればどなたでも参加可能です。
【ご登録方法】次の①もしくは②のいずれかよりご登録ください。
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【講座詳細】
◇8月(全4回)は近代哲学編として、哲学の問いが、「何が存在するのか」「存在とは何か」を問う存在論から、「人間は何をどのように認識できるのか」という認識可能性の問いへと展開した近代哲学について学びます。デカルトによる「我思う、ゆえに我あり」に始まり、カントの哲学で完成する近代哲学の流れを見ていきましょう。
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第1回(8/5)「デカルト入門①私も世界も存在しないとしたら?」
哲学とは真理の探究です。しかし、そもそも絶対に疑いえない真理など果たしてあるのでしょうか。もしも、私たちが「真理」だと思っているものが、実は真理でなかったとしたら、真理を探究するあらゆる学問は無意味なものとなってしまいます。
フランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes 1596-1650)は、こうした問題意識から、絶対に疑いえない真理を追い求めるべく、一切の真理を疑ってかかります。「この現実世界すらも夢かもしれない」「数学的な真理も誤りかもしれない」 こうした疑い(懐疑)の果てに、デカルトは果たして真理に到達することができるのでしょうか。今回は、デカルトが問題視したスコラ哲学についてお話しするとともに、デカルトの著作『省察』(1637)「第一省察」を読み、デカルトが方法として採用した「方法的懐疑」とは何かについて学び、デカルト哲学の問題意識を追体験しましょう。
第2回(8/12)「デカルト入門②「我思う、ゆえに我あり」の意味とは?」
どんなことでも疑えるので、もはや真理なんて存在しないのでは?しかし、デカルトはここである真理を発見することになります。「方法的懐疑」の先に見いだされたのは、以外にも「私」という存在でした。しかし、こうした「私」もまた、方法的懐疑の議論を前提にすると、身体を持っていることも疑わしいですし、そもそもこの現実世界が夢かもしれないのですから、一般的な意味での「私」であるということはできません。はたしてデカルトは、「私」をなんであると考えたのか?そして、デカルト哲学は、その後の哲学にどのようなインパクトを与えたのでしょうか。今回は、『省察』「第二省察」を参照しながら、デカルトが見つけた真理について、それがなぜ近代哲学の始点であると言えるのかについて考えてみましょう。
そもそも人間なるものは、なんの知識も持たず、まったくまっさらな状態で生まれてくるのか(赤ちゃんを見ているとそんな気がします)、あるいは、ある程度何かしらの知識がインストールされた状態で生まれてくるのでしょうか。こうした「生得観念」をめぐる問題は、イギリスの哲学者ジョン・ロックや、デイヴィッド・ヒュームに代表される経験論と、フランスの哲学者デカルトに代表される大陸合理論との対立点となります。なぜ経験論は大陸合理論の生得観念を批判する必要があったのでしょうか。今回は、経験論と合理論の対立から、人間はいかにして何かを認識しうるのかという問題に、近代の哲学がどのようにアプローチしたのかを見ていきましょう。
第4回(8/26)「カント入門:あらたな哲学の総合としてのカント哲学 」
ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724-1804)の哲学は、大陸合理論とイギリス経験論それぞれの良いところをひとつにまとめ、両者を総合したものとして理解することができます。人間の認識は、必ず経験を必要としますが、すべてが経験に還元されてしまうのではなく、人間に本来的に備わった時間と空間、一定の概念を通してはじめて可能となります。カントの哲学は、哲学史全体を通しても、理解するのが困難であるとされます。今回は、合理論と経験論の問題点をどうカントが乗り越えたのかという観点から、カント哲学のエッセンスを理解しましょう。はたして、カントは、いかにして両者を総合し、あらたな哲学を作り上げたのでしょうか。
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◇7月(全4回)は古代哲学編として、哲学が始まった古代ギリシア哲学について学びます。
※8月は近代哲学編、9月は現代哲学編を行います。
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「哲学」と聞いて皆さんはどんなイメージをお持ちになりますか?「哲学者は浮世離れしている」「小難しい」「何の役にも立たない」等々…。はたしてそうでしょうか?
古代ギリシアの哲学者ディオゲネスは、贋金を作ったり(諸説あり)、当時の大権力者のアレクサンドロス三世に歯向かったりと、きわめて破天荒な性格で、まさに哲学者を体現するような人物です。そして、彼の生き方や思想には、現代においてもなお、哲学を学ぶ意義を見いだすことができます。今回は、ディオゲネスのエピソードを紹介しながら、哲学をすることの意義と何よりも「哲学すること」の楽しさについて考えてみましょう。
◎講座で用いる資料はこちらで準備しお渡しいたします。
◎参考文献:ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)〔全3冊〕』加来彰俊訳、岩波文庫、2007年/山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』講談社学術文庫、2008年。
第2回(7/15)「万物の始原(アルケー)とは何なのか:哲学のはじまり」
「この世界はいったい何からできているのか?」
哲学は、古代ギリシアにおいて、世界の起源(アルケー)を問うこの問いから始まったとされています。同時に、人間が世界を理解するためには必ず言葉を使わなければならず、これによって様々なパラドクス(逆説)が引き起こされることになります。
哲学が言葉と思考に関わる以上、こうしたパラドクスに立ち向かうことが運命づけられたといえます。今回は、ゼノンのパラドクス(アキレスと亀のパラドクス等)に着目し、世界と言葉、言葉と思考の奇妙な関係について考えてみましょう。
◎講座で使用するテキストはこちらで準備しお渡しいたします。
第3回(7/22)「 "ある"はあるとてなにが"ある"?:パルメニデスの存在論について」
古代ギリシアの哲学者は「この世界が何からできているのか」という「世界の起源」への問いから始まりました。しかし、世界の起源を問うということは、そもそも、この世界がある(存在する)ということをあらかじめ前提としています。ならば、哲学が第一に問うべきは、この世界がある(存在する)とはどういうことなのか、そもそも存在とはどういう意味なのかということでなければなりません。古代ギリシアの哲学者であり、エレア派の創始者パルメニデスが発したこの問いは、哲学史に多大な影響を与え、哲学史全体を連綿と通底する「存在論」を始めることになりました。パルメニデスの問いのインパクトを体験するとともに、この問いに対する彼の驚異的な回答から、はたして存在とは何かということについて考えてみましょう。
◎講座で用いる資料はこちらでお渡しいたします。
◎参考文献:プラトン「パルメニデス」(『プラトン全集〈4〉』所収、岩波書店)
第4回(7/29)「本質は上にあるのか下にあるのか?:プラトンとアリストテレス」
哲学史全体を見渡した時、もっとも多大な影響を与えた哲学者といえば間違いなくプラトンとアリストテレスでしょう。
たとえば目の前にあるリンゴは食べてしまえば無くなりますが、「リンゴ」そのものがこの世界から無くなるわけではありません。では、リンゴをリンゴたらしめているリンゴの本質は、はたしてどこにあるのでしょうか?さらに、愛や美しさ、善や悪といった目に見えないものの本質もまた、存在するのでしょうか?
あらゆる物事の本質はこの世界にはなく、天上のイデア界にあると考えたプラトン、いや、そうではなく、むしろこの世界のなかにこそ本質は見出されるべきだと考えたアリストテレス。対立する二人の哲学者の思考は、その後の哲学史において展開される大きな対立軸を作ることになります。今回は、プラトンとアリストテレスの哲学の概要を理解し、彼らが哲学史に与えた影響について考えてみましょう。
◎講座で用いる資料はこちらでお渡しいたします。
◎参考文献:プラトン『国家』(『世界の名著7 プラトンⅡ』所収、中央公論社)/アリストテレス『形而上学』(岩波文庫)
注:いずれの講義内容も一例であり、受講生の皆さんの関心や理解度に合わせて内容を変更することがあります。